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我、拗ね者として生涯を閉ず ( 本田 靖春 )

先日の毎日新聞の図書紹介欄に、本田靖春氏の本書が掲載されておりました。題名に「拗ね者」とあり、その拗ね者に惹かれて、紹介文を読み自分の人生と重ね合わせ、ちょっと値段が高かったのですが、購入してしまいました。文章は全体として平易でノンフィクション風であるにも拘らず、小説のように読めました。読後感としては、今の読売新聞からは全く想像がつかない、戦後復興期の瑞々しさを感じました。読売新聞にそうした時期があったとは、想像だにしたことはありませんでした。さらに欲を言うならば、西の黒田軍団には、かなり触発されたと思うのですが、一言も触れておられなかったことはちょっと残念に思いました。本書は、こんな歪な国にしてしまった官僚どもに是非読んで頂きたいと思います。(男58歳)

 読売新聞入社早々に社会部のエースとなった著者は、数々の名文を世に放ちました。中でも「黄色い血追放キャンペーン」は社会的影響が大きい記事でした。<BR> キャンペーン開始の昭和39年当時、日本の輸血用血液は99.5%は買血でした。生活のために血を売る日雇い労働者たちが供給源です。頻繁な採血によって赤みを失い黄色っぽくなった血液は「黄色い血」と呼ばれました。<BR> この血液を輸血した患者は20%以上の確率で悪質の血清肝炎にかかります。こんな危険な状態を放置しておけない、と若き日の著者が社会正義に燃えて立ち上がりました。何も改革しようとしない厚生官僚やリベート漬けの医療関係者を相手にキャンペーン記事を書き続けます。<BR> 当時の厚生官僚は、「宗教心のない日本人に献血は不可能」と言いました。しかし、キャンペーン開始2年足らずで約50%の血液供給をするまでに達し、とうとう昭和44年に保存血液の売血は完全に消滅しました。<P> 著者が敢えて自慢話を書いたのは、「善意と無限の可能性を信じる集団」だった「社会部が社会部であった時代」のことを知ってもらいたいからです。<BR> 読売新聞社会部は、その頃から社会部らしくない兆候が現れはじめます。社主の正力松太郎氏が新聞事業に関係ないゴルフ場・読売ランドに力を入れる様子を、何の抵抗もなく社会面に載せていました。<BR> 「社内に言論の自由がなくて、どうして日本の言論の自由を守れるか!」と、熟慮の末、著者は抗議の意を込めて会社を辞めました。せめて会社の風土に一石を投じたはずだったのですが、その後、ナベツネが登場し、もっとひどい状況になったそうです。<P> 最後まで社会部記者の矜持を保っていた著者。その誇りあるジャーナリストを「拗ね者」と自嘲させてしまうような現代社会の風潮とは何なのか。自分自身が、その浅薄な風潮に流されていないだろうか。<P> 考えさせられる一書でした。

本田という人は死んだらしい。読売には異例の大きさの写真とともに、かつてのスター記者を喧伝した記事が載っていたが、日韓共催サッカーの、テレビからスポーツ新聞まで含めた紋切り型の大本営発表報道のように、我々がすでに他人が見たものしか見ない時代においては、そんなものについて判断はできないし、する必要もない。もっとも彼が死んだとして、彼が憎んだ読売の宣伝材料に使われるのは皮肉かもしれない。私が最後に彼に手紙を書いたのは、この記事の載る数ヶ月前だったと思うが、その最後に「本田さんが頭がよいとは思わないので、本田さんのイデオロギーに興味はないが、何故このようなイデオロギーを振り回したいのかはやはりわからない。」と書いた。彼のイデオロギーというのは、かなり昔に彼が書いてきた手紙のことである。私小説的な一点透視図法に執着するのは、彼が近代的主体という、資本主義的神話の住人だからだろう。彼は、人間は理不尽なものと力の限り戦える人間と、世の中はそいうものだと割り切って、いわゆる大人になる人間とにわかれると書いていたが、これはヘーゲルの奴隷と主人の弁証法である。19世紀にヘーゲルが考えたことを20世紀後半の本田氏が考えても何の不思議もないが、このような差別により異様なまでに肥大化した近代的自我が、己が理不尽とみなすものと力の限り戦う源泉である。それは、あらゆる競争や恐慌を乗り越えてきたマンハッタンの摩天楼のようなものだ。彼がスターとして描きたいものもその様な物だ。このような差別を糧にして渡辺や石原も己が理不尽とみなすものと力の限り戦うのであろう。それゆえ彼らは他者を奴隷として見下し管理する権利と義務を持った主人なのである。本田が渡辺や筑紫や石原と同じ種族であるのは当然だが、現実の力なるものしか見ないのは、私が書くことは事実なのだから他人は信じるべきだというような、近代的常識に過ぎないだろう。ドゥルーズの差異の哲学について、相対立するものの差異は見せかけにすぎないといったのはリオタールだ。

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我、拗ね者として生涯を閉ず
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