モオツァルト・無常という事 みんなこんな本を読んできた モオツァルト・無常という事
 
 
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モオツァルト・無常という事 ( 小林 秀雄 )

そもそもこの本は昭和36年5月に初版が刊行され、平成3年11月に56刷改版。それが平成18年4月に74刷まで増刷して8月に75刷が改版となりました。では、今回の改版で何が変わったか? 3つあります。まずは版組が平成3年版よりゆったりしました。昭和36年版は1ページ18行(1行43字)、平成3年版は1ページ17行(1行41字)が、平成18年版では1ページ16行(1行38字)になっています。次に富岡鉄斎論が昭和23年の「時事新報」に発表された現行題「鉄斎1」だけだったのに加えて、昭和24年の「文学界」の発表の「鉄斎2」と昭和30年角川書店「現代日本美術全集第1巻」所収の「鉄斎3」計2編が増補されています。そして、「小林秀雄全作品」の脚注に基づいた注解が60数ページにわたってついています。上の画像は平成18年版(「小林秀雄」の文字がセンタリングされています。平成3年版は左寄せ)のものです。注解はおおむね辞書的なものですが中には梅沢万三郎の当麻を「著者が観た公演は昭和17年2月頃に行われたものと思われる」と踏み込んだ注解もあり星5つつけましたが、雪舟(や顔輝)の「慧可断臂図」や光悦宗達の図版もあるとより一層いいですね。

 小林秀雄の文章は、人が十行かけることを一行で述べる、とはよく言われることである。では、何ゆえに、それが一つの「価値」として認定されるのであろうか?そう考えてみると、このことは思った以上に厄介な問題である。<br> 文学が商品として消費される、というのは何も現代に限ったことではなく、時代を問わず、人は物語を消費していくものだ。そして、作家とは、そういう読者の欲情を狡猾に利用するものであるという構造も、文学が成立して以来変わるものではない。とするならば、作家が神を抱き得る可能性を担保できる領域はどこにあるのだろうか?おそらく、小林秀雄ほど、この問題を真剣に考えた作家はいないだろう。彼の独自性は、その人身幻惑たるレトリック自体にあるのではなく、それはむしろ結果であると認識した倫理の拠りどころにあるのではなかろうか。<br> と、このような文章を書くことが既に小林秀雄に騙されている証左であろう。しかし、自らを自意識の中に保全して外部との接触を避けるという「趣味」を拒絶する嗜好の持ち主ならば、その言葉に一度は誑かされてみるのも悪くはあるまい。それは、もしかすると死すべき宿命を負った人間に、儚い光明を与えることにもなるかもしれないのだから。

 この文庫には小林の芸術に対する思想が述べられている諸編が収められている。思想といっても、観念と言うより態度とでも言うべきものだ。中でも「モオツァルト」と「実朝」はすばらしい。批評思想の精髄が、言葉によってこれほど美しい「かたち」をなしえるとは。それぞれの作品の中でモーツァルトの絶対的な新鮮性や実朝の純潔な無垢が「美」として成立する様を己の感動をとおして描くこと。<br> 従来、小林のモーツァルト観は器楽作品に偏りすぎていると言われてきた。評家の言うところ間違いはなかろうが、素直に読んでみると、オペラ作品への言及が多いことに驚く。それから、「実朝」では不気味な吾妻鏡の記述を通して、常住「死」に向かい合っていた青年将軍の精神を、その子どものような純粋さをとらえているのが印象的だ。<br> その他の作品も人間と芸術、人間と美の関わりを説いて、充実の極みである。特に折口信夫に言及した「偶像崇拝」は小林が宗教と芸術の関係をどうとらえていたかが端的にわかって興味深い。

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